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たそがれの月、夜明けの太陽

たそがれの月

 夕方の空に薄く、白い月が浮かぶ。
 微かな歌声が紡ぐ旋律が、暮れゆく空気に溶けていく。
 まるで月が歌っているみたいな、ひそやかな歌。
 歌声はあの月のように澄んで、どこか切なく切実だった。

 聴こえているよ。
 声には出さずに春は言う。
 聴かせてよ。その歌声を、いつまでだって。

  

 一九九九年九月、ノストラなんちゃらの言った恐怖の大王はやって来ないまま、あっさりと夏は過ぎ二学期がやってきた。

 海に面し山に囲まれた、休日は観光客で賑わう小さな町。ここに住む遠山家──特にこれといって変わったところのないこの一族にはしかし、ある秘密があった。
 この家に生まれた人間は皆、超能力めいたちょっとした力を持っているのだ。例えば長女の昌子は少しの時間空中を飛ぶことができる。もっとも、全盛期でも長くて十秒程度だったが、とにかくそういった小さな超能力らしきものを持っているのである。
 市内の県立高校に通う昌子の息子・春の場合、それは「ほんの少しの未来が見える」ことだった。

 海沿いを隣の市まで走る単線の小さな電車、そのちょうど中間にある海に面した駅を出て坂道に向け公園を通り過ぎようとした春の視界が一瞬白く光った。
(あー、まただ)
 坂を勢いよく上ろうとした自転車が何かに躓き横転する。
(相変わらず唐突なんだよなあ)
 突然始まって突然終わる。しかもやたら短く、ほとんど一瞬。それが春の未来の見え方だった。春は自分の中でそれを白昼夢と呼んでいる。子供の頃は、今目の前で起きていることなのか、見分けがつかなくて混乱した。十年以上付き合ってきてさすがに慣れたが、それでも少し戸惑う。
 気を取り直し、坂を少し上ったところで横断歩道を渡ろうとすると、上ってきた一台の自転車が前を横切った。
 と、その先で何かに躓いたのか横転した。
「三枝せんせー、何やってんのー」
「大丈夫ー?」
 周囲の生徒たちが笑いながらも近づき、落ちた荷物を拾ったりしている。自転車で転んだ彼は美術教師だ。特に怪我もないらしく、笑って礼を言うと再び自転車に跨り坂を上っていく。
(しっかしなんで、見える未来は嫌なことな場合が多いんだろうな……)
 いくらかうんざりしながら、坂を上る。
(あと三年したら、こうした悩みともお別れできるんだろうか)
 遠山家の人々の超能力らしきものの特徴は二つ、一つはそれが些細とも言えるようなちょっとした力であること、もう一つは二十歳を過ぎると元々小さなその力がさらに弱まること。
 春の母・昌子は大人になり力が弱まった今、飛べるのはせいぜい二秒ほどらしい。「それ、普通にジャンプするのと変わらなくない?」と春は思うが、口に出そうものなら怒られるに決まっているので黙っている。そんな大したことなさそうな力でも、春の父にとっては受け入れがたかったらしいのだ。
 春は現在十七歳。春の超能力らしきものも、あと三年すればぐっと弱まるはずなのだ。 あと三年、ひたすらそれを目標に耐える日々である。

  

 新学期特有のざわめきが、今日は特に大きい。
 一学期より机が一つ多いのだ。
 浮足立つ生徒たちに、担任の男性教師は若干呆れてみせながら転校生を紹介した。
 中川雪斗──なかがわゆきと──、という名前のその転校生は、やや細身で色白の、しかしひ弱という感じでもなく、黒目がちの目は意思が強そうで、その白い肌も黒い目もどことなく周囲の空気から浮いているような、なんだか不思議な印象の少年だった。
「よろしくお願いします」
 と決して大きくはない声で言うと、転校生は空いていた後方の席へ座った。
(綺麗な声だな)
 前列なので声がよく聞こえた春は思った。
 転校生はさっそくクラスメイトから質問攻めにあっている。廊下からは他のクラスの生徒も覗いているようだ。情報が早い。

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