- 文庫/32p/¥400-(電子書籍は¥300-)
- 紙の本:架空ストア
- 電子書籍:403adamski
鯨
「夢を見たんです」
と、男は言った。
電車はしばらく止まっていて、まだ動き出す気配はない。車内には繰り返し、車掌による振替輸送の利用を促すアナウンスが流れているが、空いた車内で座席に座る乗客たちはもう動かない。この路線しか止まらない駅へ行くとか、せっかく座れたんだから乗り換えたくないとか、そういうことだろう。僕も同じ理由で、窓際の席に座り続けている。仕事帰りで疲れている。動きたくない。振替輸送の電車は混んでるし。電車が動いていないからか、ホームにも人は多くない。
二人掛けの座席が向かい合うボックス席、進行方向に向かう窓際に座った僕の向かいに座る男は、
「夢を見たんです」
そう唐突に言った。
このボックスに他に客はなく、さりげなく辺りを見渡してみても誰もこちらに注意を向けている様子はなくて、男の言葉はたぶん僕に向けてなのだろうと思ったけれど、彼は知り合いではなく、そもそも彼の目線は窓の方に向けられていて僕を見てはいない。
誰に喋ってるんだろう、この人。
「変な夢だったんですよ」
戸惑う僕に構わず、男は喋り続ける。
◇
僕らは海沿いの駅に座っていました。
目の前は海で、僕らは駅のベンチに座ってぼーっと海を眺めていました。天気はよくも悪くもなくて、波もなくて、穏やかな、眠たくなるような景色でした。僕らはずーっとただ海を眺めていて、どれだけ眺めていても景色は全然変わりませんでした。
でもある時、水平線に違和感を覚えたんです。何だかはわからないけど。それでじっと見ていたら、水平線の向こうから、黒い何かが来るんです。段々見えてきました。黒い、丸みを帯びた何か。大きな、大きな何かです。何なのかはわかりません。ただ、黒っぽい丸っこい巨大な何かです。それは静かに、でもまっすぐに海岸へ向かってきました。近づいてくるにつれてどんどん大きくなっていきます。まるで島のようで、でもやけにつるりとしていました。海岸の手前まで来て止まったと思うとざばっと大きな音と水飛沫を立てて持ち上がりました。
口だ
と思ったときには、僕らはもう飲み込まれていました。
飲み込まれたんです。
全体が見えないままに飲み込まれたのでよくわからなかったのですが、たぶん鯨だろうなと思いました。大きいですね。ピノキオにそんなエピソードがあった気がするなって思ったんですけど、僕ピノキオ観たことないんですよね。
暗くて、生暖かい、湿ったところでした。きょろきょろ見回してみたけど暗くて何も見えませんでした。あなたを呼ぼうと思ったけどなぜだか、声を出す気になれませんでした。なんだか不安になる場所でした。時間もわかりません。鯨なら泳いでいるのだろうけど、どこをどう泳いでいるのか僕にはもちろんわかりません。そもそもそこが動いているのかも僕にはよくわかりませんでした。ただ、暗くて生暖かくて湿った、ぼんやりと暗がりが広がる場所です。暗がりと言うには暗すぎたかな、何も見えなかったから。あなたも不安だったのかな。やはり声を出して呼ぶべきだったのでしょうか。でも不安で嫌だったけれど、不思議と落ち着いてもいて。最初は、ぼんやりと不安が浸みてくる感じだったけど、そのうち、それにも慣れてきたというか……違うな、そんなに、悪くない気がしてきて。暗くて生暖かくて湿っていて、ぼんやりと不安だけど嫌な感じはしなくて。僕は声も出さず、動き回ったりもせず、ただじっとうずくまっていました。そのうち眠くなって、ここで寝るのはどうなんだろうと思いながらも、いつのまにか眠ってしまいました。
気づいたら、僕は砂浜に立っていました。あの、駅から眺めていた海の、その海岸です。駅のすぐ前です。一人でした。あなたはどこに行ったんでしょう。呼ばなかった僕に愛想を尽かして行ってしまったのでしょうか、それとも、あのまま鯨と一緒に旅をすることにしたのでしょうか。
……夢です。夢ですよ。
鯨に飲まれるなんて、そんなピノキオみたいなこと、現実ではないですよ。でも、どうしてかな、あの日からあなたに会えないんです。
◇
いつのまにか電車は動き出して――止まっているときは煩いくらいアナウンスしているのに動き出すときは静かだ――、もう次の駅に停車しようとしていた。
電車は相変わらず空いていて、僕の向かいには誰もいなかった。