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空の鯨

春、晴れ

 大きな影がすっぽりと体を覆い、すぐに追い越していく。
 鯨だ。
 一頭の鯨が晴れた空をゆったりと泳いでいる。大きな体が一号館と二号館の間、大学のメインストリートをあっという間に通り抜ける。正門の上を滑るように246に出るとぐい、と上昇した。
 上昇したくらいまでをなんとなく追った視線の先、車に乗らない大学生たちからもニイヨンロクと数字で呼ばれる大きな道を挟んで向かいにある劇場の壁の曲面は水面に見えないこともない、気がする。
 今日はいい天気だ。
 からり、と音がしそうに乾いた鯨が空を泳いでいる。嘘みたいな光景。わたしはいつも飛行船を連想する。ただ浮かんでいるだけのからっぽ。ぐるりと上空を周回したらしい鯨がゆったりと尾びれを振ってどこかへ泳ぎ去って行く。鯨に遅れることしばらく、大学を出たわたしは渋谷駅へ向かって左に曲がる。鯨がどこへ行ったのかはわからない。空を探せばどこかに見えるかもしれないが、そこまでするほどのことでもない。鯨が渋谷の空を飛ぶようになったからといって、わたしの生活には特に影響はない。いいことも、悪いことも。一頭の鯨が渋谷の空を飛んでいる、それだけのことだ。物珍しさを狙ったのだろうけど、毎日渋谷に通っている身からすると三日で飽きた。まあ、物珍しさ──つまり観光客向けなら、わたしは対象じゃないので間違っていない。
「鯨だー」
 すれ違った女性が一緒に歩いていた男性に言う声が聞こえた。渋谷に遊びに来る人たちはみんな鯨を見上げる。いい気分だろうね、自由だよね、羨ましい──そんな感想を漏らしながら。
 少しだけ羨ましいとか思う。鯨じゃなくて、鯨を見てそう思うみんなが。わたしのそんな感想はとうにどこかへ行ってしまった。
 どんな気分なんだろう、と、たまに思うだけだ。
 毎日たくさんの人が行き交う街の上を、ごちゃごちゃとビルが建っていたり大画面の広告があったりする街の上を、住んでたり毎日通ってきてたりな人間が早足で歩いていたりどこかからやってきた人間が右往左往したりしている街の上を、悠々と泳ぐのはどんな気分だろう?
 もっとも、あの鯨にそういう、気分とか感情とかいうものがあるのかは知らない。そういえば、海にいた鯨には気分や感情はあったのだろうか。夕方の空は段々と、夕焼けが深く暗い青に変わりつつある。

 宮益坂の上で信号待ちをしていたら道を訊かれた。若い男の人だった。大学生か、もっと上か。男の人が言ったのは耳慣れない単語で、首を傾げたわたしに彼は「洋服の」と言い足した。たぶんブランドの名前だろう。わたしには縁がなさそうだ。行ったことはない、どこにあるかも知らない。見せられた携帯電話の画面には『渋谷区神宮前』という住所が見えた。
「たぶん、表参道の方だと思います」
 246の向こうを指差すと、男の人はそんなはずないみたいな顔をした。
「いや、渋谷って書いてありますよ」
「いやでも、神宮前なので……」
「だから、渋谷なんですよね」
 ……上手く説明できる気がしない。
「じゃあちょっとわかんないです」
 逃げるように青に変わった信号に従って道を渡ってしまった。振り向かずに坂を下り始める。
 大学から246を宮益坂と反対の方向へ行くと交わる大きな通り──表参道にはハイブランドとかおしゃれな店が並んでいる。最寄駅は表参道もしくは原宿。渋谷とは別の街というイメージなのかもしれない、とわたしもやっと思い至る。でもわたしではきっとあの人を納得させられないと思う。あの辺りの住所は渋谷区神宮前──渋谷だ。鯨も飛ぶ。あの人も鯨を見上げるだろうか。
 鯨は渋谷の上しか飛ばない。逆に言えば、鯨が飛ぶ場所は渋谷だ。そういう風になっている。鯨は、「渋谷」と規定された空しか飛ばない。「渋谷」の範囲は住所で決められた。つまり鯨は渋谷区の空しか飛ばない。イメージとしての渋谷じゃなくて、住所としての渋谷の上を鯨は飛ぶ。渋谷駅前だけじゃなくて、表参道だって代々木だって鯨は飛ぶ。
 つくりものだ。
 人寄せパンダならぬ、人寄せ鯨。しかも人工。乾いた金属の塊。機械仕掛けの空飛ぶ鯨。
 やっぱり飛行船じゃないか。
「渋谷って、鯨が飛んでるんでしょ?」
 鯨は渋谷の宣伝に飛ばされている。みんな見上げるんだからきっと成功だ。鯨が飛んだからって、何が変わるわけでもないのに。
「今日も飛んでるのかな?」
 鯨が飛んだからってわたしの生活は、わたしはなんにも変わらない。鯨が飛ぶ前からずっと、ただ漫然と日々は過ぎていく。鯨が飛んだところで何も変わりはしない。
「見えないねー」
「せっかく渋谷来たのに」
 鯨、鯨、鯨
 ずかずかと坂を下りる足が速くなる。どうせなら鯱がよかった。獰猛に噛みついて飲み込んでくれればよかった。信号待ちでふと見上げたら駅の向こうの方の空を鯨が飛んでいた。空は随分暗くなっていて、ビジョンや広告の明かりが鯨のお腹を照らしている。
 金属でできた機械仕掛けのおもちゃのくせに悠々と泳いでいる。晴れた空を気持ちよさそうに。機械にそんな感覚はきっとない。でも、もし空を気持ちいいと思うようにつくられているのだとしたら、ちょっと哀れだ。鯨は海を泳いでいたのに。渋谷の空なんて飛ばされてる、永遠に孤独な鯨。
 雲もない紺色の空を、からりと乾いた黒っぽい大きな体がぐるぐると泳いでいる。早く雨の季節になるといい。渋谷という谷に雨が流れ込むのを想像する。雨に濡れる鯨がその池の中を泳ぐのを想像する。◎

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