books

紅き華 泥に沈む

冬枯れ

 久し振りに訪れた故郷は荒れ果てていた。元々人の少ない辺境で、ぽつぽつと家があるだけだったが、そのどれも今は荒ら屋で人の気配はない。幾度かの戦と飢饉で疲弊した土地を微かに湿った風が通り抜けるばかり。実家は同じ場所に建っていた。もっとも、かなり荒れている。塀や門は崩れ、生い茂った雑草が枯れて立ち尽くす様は凄まじい。これがあの家か、と思わず息をついた。もう誰も住んでいないのだろう。大きなはずの家はひっそりとそこにあった。ほかの家ほど荒れてはいないが下人の姿も家族の姿もない。どこかほかへ移ったのだろう。そう思ったとき、かさ、と音がして家の中から老人が現れた。
「ぼっちゃま、」
 嗄れた声で老人はそう叫ぶと、足を引き摺りながら駆けてくる。転ばぬよう腕を取ると、老人はもう一度「ぼっちゃま」と俺の顔を見た。先々代から仕えているという下人だった。

 蓮の生い茂る池の縁を回る。枯れた茎が空しく立っている。家の者たちはどこへ移ったのか訊くと下人は首を振った。ご両親は離れにおられます。という言葉に耳を疑った。下人たちはみな暇を出され、老人だけが命に反して残ったのだという。彼も離れには近づかぬよう言われ、母屋の管理だけをしているのだと言った。池の向こうにあった離れが近づいてくる。母屋よりも荒れていることは遠くからでも明らかだった。ここに住んでいる? まさか。あの母が、こんな荒れた住まいをよしとするとは思えない。
 けれど、何かの気配がある。
 奇妙な、しかし無視できない何か。
 人間が生活しているとは思えないのに、ここには何かがいると感覚が訴える。粟立つ肌をさすりながら、池と離れの間を通り抜ける。離れを覗く勇気はなかった。母は、それに母の夫はどこへ行ったのか。
 離れを通り過ぎても気配は消えないどころか強まって、思わず足を止めた俺は眉を顰めていた。ようやく次の一歩を踏み出したところで、池に張り出す小さな四阿に気づいた。四阿といっても低い部分には壁があり、腰掛けてその上から蓮を眺めるような格好だったと記憶している。母のお気に入りの場所で、俺は近づくことさえ許されなかった。母の夫はどうだったのだろう。彼は贅婿(ぜいせい)だった。この辺りでは、富裕な家が娘しかいない場合に贅婿を取り後継ぎを残そうとするのはよくあることだ。贅婿は下男か、それがない場合は買ってきて充てられる。つまり贅婿は奴隷と変わりないし、娘にとっては一生を下僕と添い遂げ閨でのことを下僕と済ませ下僕の子を産むという――まあ、忌々しいことだ。男子のなかった祖父は後継ぎを作らせるために、娘に下僕を買い与えた。母が夫をどう思っていたのか俺にはわからない。酷く辛く当たることもあれば、仲睦まじく見えるときもあった。ただ一貫して、贅婿を受け入れてまで産んだ息子には関心を向けなかった。母の、きつい目元を思い出す。厳しくも愁いを含んだあの眼差しが自分に向けられることはなかった。都へ行くと言ったときですら、母は自分を見ず、一言「そうか」と言っただけだった。母の夫はいつも影のように母に付き従っていたが、母に比べれば遙かに自分にも視線を注いでくれた。それでもどこか、息子に対してさえ主人に対する下人のような空気があった。皆が母に似たと褒めそやした息子の容貌を二人がどう思っていたのかはわかりようもない。過去を振り払うように首を振る。今更思い出しても仕方のないことだ。あの二人はどこかへ逃れたのだと思うほかない。一度も訪れたことのなかった四阿の前に辿り着く。短い桟橋は腐り半分ほどが池に落ちている。その向こうの四阿も崩れ、蓮の泥に沈みかけていた。夏に花が咲けば、きっと蓮の香りで満ちるのだろう、と唐突に思った。今なお近づくことのできない四阿の崩れた壁から黒い布地が少しはみ出して風に翻っていた。思わず足を踏み出して、腐った木が体を支えられず泥に沈む。それ以上進むことはできない。黒い布。一見すると無地のようだが、よく見れば細かな刺繍が施された、見る者が見れば高価な品。この場所からではよく見えないけれど、そもそもよく見れば汚れほつれ色褪せているけれど、きっとそうした布に違いないと思う。思ってしまう。母はそうした布で誂えた服を夫に着せるのを好んだ。あくまでも自分を拒む四阿の中にあるのはその布だと、それ以外ないと思ってしまう。母の夫は、そうした服がよく似合う美丈夫だった。

タイトルとURLをコピーしました