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泡沫語り

補陀落渡海

 
「そうですか、東国から熊野へ旅をなさっておいでで。熊野もなかなかいいところでございましょう。実を言うとわたくしも東国の出身でして、ええ、相模の方です。今はこちらで修行をしつつ、いらした方の案内もしているといった具合でして、ええ。平維盛様ですか、ええ、もちろん存じております。最近はあの方のことを聞かれることが増えました。
 ええ、それはそれはお美しいお方でした。なんでも都では光源氏と呼ばれていたとか。そう言いたくなるのもわかるお方でしたよ。ほんとうに、見目麗しく、雅なお方で。……きっと、雅すぎたのでしょう。武士(もののふ)といえど都では公達と変わらない暮らしをされておいでだったのでしょう? それがいきなり大将にというのですから、まだお若くて兵を率いるのはご苦労も多かったでしょうし、きっと心を痛めることも多かったことでございましょう。そうしたことから、仏門へ向かわれたのではないでしょうか。
 ええ、御仏に祈る姿もそれは麗しく……え? 入水についてですか? ここは熊野、那智でございますから……ええ、補陀落渡海というのです。海から浄土へ向かわれる方は時折おられます。尊いことです。あのお方もそうした志であったのだと、わたくしは信じております。ええ、もちろん、仏門に入られた上で、あそこから海へ入られたのですから。ほかに何がありましょう。補陀落渡海というのは大変徳の高いことでございますから、きっと御一族の皆様も共に浄土へ行かれたことでございましょう。……え? 竜宮城、ですか? なるほど、そういった噂もあるのですか。さあ……どうでしょう、そこの辺りはわたくしには何とも……ええでも、そういうことも、もしかしたら、あるかもしれませんね。
 ……え? わたくし、ですか? とんでもない。しがない僧侶にございますれば、とても、補陀落渡海など成し遂げられる器ではございません。ええ、精々あのお方の麗しき様と尊い志をこうして語らせていただくくらいでございます」

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