眠れない夜は本棚の背表紙を辿る。ぼんやりと一冊ずつ思い返したりしていると、そのうち眠りの方からやってくる。俺がたまに街へ行くたびなけなしの金で本を買ってくるのを母は止めない。諦めているのか、それくらいはと思っているのか。
今夜は静かな夜だ。
もっとも、ここでは大抵の夜は静かだ。
砂のほかは何もないような砂漠の中、四つの井戸とそれを守る四つの家族、たったそれだけの、集落と呼ぶのもおこがましいような場所。
かつでは行き交う隊商で賑わったというけれど、そんなものは何十年も前に廃れてしまった。今は遊牧民が放牧途中に立ち寄るだけだ。旅人? そんなもの、砂漠の真っ只中には滅多に現れない。
俺のいる家族は、四つの中で一番小さい。
兄は街へ出ると言って帰って来ず、姉は別の集落に嫁ぎ、父は死に、母と俺が残された。
一番滅びに近い家。
この集落――そう呼ぶことが許されるなら、だが――がすぐに滅ぶとは思っていない人間でも、この家族が遠からず滅びることは疑っていないだろう。
俺はとっくに大人と言われる歳で、子供どころか妻も恋人もいない。
今だって、隣に寝ているのは男だ。
それを思い出して思わず笑ってしまう。
男は、旅人だった。滅多に現れないものが現れた。何年振りだろう。
東から来たという男は、今は俺の隣ですやすやと眠っている。どこでも眠れる性質なのだろうか。改めて隣を見るけれど、素肌を晒す胸が無防備だと思う。
今は暗い部屋の中で茶色く額にかかっている髪は日の光の下では金色で、今は閉じられている瞼の下の目は鮮やかな緑色。
そういう人間はもっとずっと西の方にいるんだと思っていた。
それを言ったら彼は、「だから西へ行くんだよ」と笑った。
何かが誤って、黒髪黒瞳だらけの東の地に生まれ育ったのだと。
ルーツを求めているのか、と、そう訊いたら、予想に反して彼は少し考えるような顔をして、
「似てるけど、ちょっと違うかな」
と、言った。
「辿り着けなくても、べつにいいんだ」
よくわからなくて首を傾げたら、
「ただ、行ってみたいんだよ」
と子供をあやすように笑った。
「だからきっとまたここを通るよ」
とまた笑う。月のように穏やかで、けれど月よりずっと温かかった。もしかしたら、砂漠の外ではそういうのを、太陽のようだと言うのかもしれない、と唐突に思った。ここでは太陽は苛烈で、とても穏やかとは言えない。
きっとまたここを通る、と言うけれど、少なくとも朝になったらまた西へ旅立つのだろう。
この家にはやっぱり母と俺が残る。
そういうものだ。
ここにはいろんな人間が訪れるけれど、彼らはここに留まらない。
旅人なんて留まったところで、この家の時間を引き延ばしはしないけれど。
「寝れないの?」
急に彼の声が聞こえてびくりとする。
「俺がいるせい?」
少し寝ぼけた声。
「いや、ちょっと考え事をしてた」
「そう」
それだけ言って、また寝たのかと思ったら、彼の腕が伸びてきて俺を捕まえる。腕と胸の間。
「なに」
「こうしたら落ち着くかなーって」
裸の胸に俺の顔を押し付けて、頭に大きな手がぽんぽんと規則的に触れる。
「子供じゃあるまいし」
押し返そうとしたけれど、敵わない。
彼の笑い声がすぐ近くで聞こえた。
「いいじゃない、こどもでも」
「よくないだろ」
よくはない。もうそんな歳じゃない。俺がいつまでも子供でいる間に、この家の残り時間はどんどんと減ってしまった。巻き戻すこともできない。
彼はそれには答えずまた笑って、小さな声で歌い出した。
「子供扱いするなよ」
と言ってみたけれど、聞こえなかったのか聞こえない振りか、耳慣れない歌は続く。聞いたことのない旋律。聞いたことのない言葉。調子が合ってるのかどうかもわからない。陽気なのにどこか切なくて、愛おしい歌。
朝、日が高くなる前に彼は旅立って行った。
金色に輝く髪と鮮やかな緑色の目で笑って、「またね」と言って。
一晩の宿の礼にいくらかの現金を置いていった。遊牧民が水の礼にするように。彼はそれを知っていただろうか。それとも大陸共通の習いか。このあたりの貨幣はどこのオアシスで手に入れたのだろう。このあたりの言葉は?
考えてもしようのないことだ。
ここにはまた、母と俺が残された。
ときどきふっと思う。
井戸が涸れて俺たちの存在意義が無くなるのと、俺が死んで井戸が涸れるのとどちらが早いだろう。
彼は、井戸が涸れる前に再びここを通るだろうか。
部屋へ戻ると枕元に見慣れない本があった。
彼の忘れ物だろうと思ったけれど、なぜかもう追いつけない気がした。
飾りの少ない表紙を開くと、てっきり俺には読めないだろうと思ったのに、中身は俺でも読める言葉で書かれていた。
忘れたのではなく、置いていったのか。
昨夜の礼? それとも贈り物? 何の?
わからないけれど、これは俺が読むべき本なのだろうと思った。ずっしりと、厚い書物。
それでも俺がこの本を読み終える前には、彼はふたたびここを通りはしないだろう。
(2017.10.23/初出)